Who is “Mr. SUZUKI”?


Who is “Mr. SUZUKI”?
2016,installation(texts,Document),Dimensions variable. 
Optional Art Activity: Who is “Mr. SUZUKI”?

Take Ninagawa  “Web site
2016/07/16/Sat.− 30/Sat./11:00−19:00
Optional Art Activity is an exhibition without works that has been held annually at Take Ninagawa since 2011. Kyongfa Che and Fumio Inoue (CAMP) are collaborating as the organizers of this third iteration. Participants will investigate the uncertain legacy of a Japanese painter who is said to have influenced Cambodia’s art history.
Only a few people in Cambodia remember the man called “Suzuki.” During the 1940s, he taught at the School of Cambodian Art in Phnom Penh (now the Royal University of Fine Arts). It is said that he came to Cambodia after studying art in France in the 1920s, and remained there for the rest of his life. There is much about him that is unknown and probably will never be known, and this situation is deeply linked to Cambodia’s recent history.
Why did he move to Cambodia? What did he see there? Did he continue to make work there? And why did he stay there for the rest of his life? Starting from the historical gaps in the narrative of “Suzuki,” each participant will expand the scope of speculation about issues like the time in which he lived and the relations between historical accounts and the imagination, and share their ideas with the audience through displays, talk events, and performances.
Participants:
Asako Iwama + Miho Shimizu (Artist), Fumio Inoue (CAMP), Sen Uesaki (Art & Archive Theory), Che Kyongfa (Curator), BARBARA DARLINg (Artist), Futoshi Miyagi (Artist)
Special thanks to:
Roger Nelson (Art historian and curator), Motoyuki Shitamichi (Artist), Masahiro Ushiroshoji (Professor, Kyushu University), Lyno Vuth (Artist and curator)
 



《Who is “Mr. SUZUKI”?》
2016,インスタレーション(テキスト・資料),サイズ可変
Optional Art Activity: Who is “Mr. SUZUKI”?に参加するにあたり、“Mr. SUZUKI”についての先行研究をもとに更に調査を行った日記と照らし合わせた調査結果資料。

Optional Art Activity: Who is “Mr. SUZUKI”?
Take Ninagawa  “Web site
2016年7月16日(土) – 30日(土) 11:00−19:00
2011年からTake Ninagawaで開催されている、作品のない展覧会。3回目となる今回は、チェ・キョンファと井上文雄 (CAMP) による共同企画。カンボジアの美術史に影響を及ぼしたといわれる、ある日本人画家を巡る不確かな像に参加者たちが応答する。
彼はカンボジアのごく一部の人々に「スズキ」と記憶されている。1940年代、プノンペンにあるスクール・オブ・カンボジアン・アート (現王立美術大学) で教鞭をとっていた。1920年代にフランスで美術を学んだ後、カンボジアへと渡り、現地で亡くなったという。しかし未だ分かっていないこと、そして、恐らく分からないままであろうことも多い。そこにはカンボジアの現代史も深く関わっている。
彼はなぜカンボジアへと向かったのか?そこでどのような風景を見たのか?制作は続けていたのか?そして、なぜ生涯そこに留まったのか?「スズキ」を巡る物語が孕む歴史の欠落を起点に、彼が生きた時代、または歴史記述と想像の関係性についてなど、参加者それぞれが思索の域を広げ、展示、トーク、パフォーマンスなどを通じて観客と共有する。
参加者:
岩間朝子+清水美帆 (アーティスト)、井上文雄 (CAMP)、上崎千 (芸術学/アーカイヴ理論)、チェ・キョンファ (キュレーター)、BARBARA DARLINg (アーティスト)、ミヤギフトシ (アーティスト)
Special thanks to:
後小路雅弘 (九州大学教授), リノ・ヴス (アーティスト/キュレーター), 下道基行 (アーティスト), ロジャー・ネルソン (美術史家/キュレーター)






日記


2016/5/11/水 
17:00〜 @3331 Arts Chiyoda 
 Iさんに連れられて、Cさんに会う。彼女はカンボジアのプノンペン王立芸術大学を訪れた折に、1970年代に絵画の教鞭をとっていた日本人がいた話を聞いたら¬しい。カンボジアは、クメール・ルージュによる大殺戮が行われ、証言者や資料の多く失われてしまっていて、それ以上のことは誰も知らないと言う。彼女は、知人のオーストラリアの美術史家でキュレーターのRさんが、このことについて調べていると知って問い合わせてみると、それは戦後すぐのことで、1970年代にその日本人がどうしていたかは、まだわかっていないということだった。苛酷な歴史の中で伝えられた記憶はとても曖昧なものだった。
 彼女は今年の夏にTAKE NINAGAWAで開催されている「Optional Art Activity」を、Iさんと一緒にキュレーションする予定で、このカンボジアの日本人教師を通して、不確かな史実と、それを埋めようとする記憶や想像のあいだを漂うようなプロジェクトとを思い立ったという。

彼の名前はSUZUKI。 それ以外のことはわかっていない。

 Cさんは、Rさんに資料や詳細を問い合わせしているという。僕は近代から現代にかけての日本の美術を背景に考えたSUZUKIのリサーチを始めようと思った。昨年僕は近代の日本の戦争と美術を扱った「戦争STUDIES」を企画・出展していて、戦後70周年で美術館や作家たちが戦争について言及するような企画が他にも多数あり交流もあった。資生堂ギャラリーで行われた「帰って来たペインターF」のOさんとは、リサーチ段階でも情報交換などをしていた。彼は東南アジアでの取材で、インドネシアで教鞭を振るっていた日本人の教え子のお孫さんを訪ねたていた。僕はOさんにコンタクトをとることにした。
 もうひとつ。トルコから日本への入国は観光ビザに限って必要はなく、飛行機でやってくるクルド難民がいる。日本は難民の受け入れには非常に逃げ腰で、申請方法も驚くほど難しく、認定も厳しい。僕は2011年に在日クルド難民の取材する中で、ベトナム戦争終結直後の激変するインドシナ情勢のなかで迫害され、漁船などで海を渡ってきた「ボートピープル」と呼ばれる人々が日本の難民制度の成り立ちに関わっていることを知った。当時から日本は難民受け入れには消極的であったし、難民条約を批准していなかった。諸外国からの圧力もあって「定住枠500人」 などの多くの難民受け入れを行ったけれど、定住した難民に対してのケアは悪く、多くの難民が家族のいる第三国定住を希望し、日本は一次庇護国となった。それでも日本を定住国として選ぶ難民もいて、国内にはベトナムに限らず、カンボジア難民コミュニティーがある。そんなカンボジアの難民たちのなかで、当時美術に関っていた人なんてほとんどいないだろうし、SUZUKIの情報を得ることはほぼ不可能だろう。でも、何か僕の中で引っかかるものもあるし、過去の話としてではなくなく、自分とつながりとして考える上でも、難民についてのリサーチも広がりは持てるのかもしれないと思った。
 キュレーターの2人は、学者や音楽家など幅広い人が、いくつかのテーブルで、演劇のようにレクチャーや談話をしていて、鑑賞者が聞き、参加もできるような企画はどうだろうと話していた。



2016/05/29/日 
11:00〜 @東京都現代美術館   
 美術館における検閲や規制について扱った「キセイノセイキ」展の最終日。Hさんのパフォーマーとして作品に参加する。打ち合わせの合間で、Cさんに、インドネシアにも教鞭を振るっていた洋画家が確かにいたことを伝える。ひょっとすると国の政策か、日本の美術家の運動としてなのか、東南アジアに洋画を広めようとする動きがあったのかもしれない。当然対象国にはモダニズム絵画を実践していない国もあり、そうなると日本人がモダニズムを輸出していることになるのではないだろうか。さらに彼女の話では、東南アジアの近代美術史を研究している九州大学のUさんが、SUZUKIについては昨年調べていて、その研究をまとめたものがあるらしく今度送ってくれるとのことだった。
 お昼からパフォーマンスでは指示通りに、脚立の上から指定された紙を、丸めて放り投げた。担当キュレーターは作家に対して嫌悪・警戒しているようで、ピリピリしていて居心地は決してよくなかった。閉館後に隣の木場公園広場で出展アーティストたち(一部キュレーターも務めた)と、アーティストや学芸員、ライター、鑑賞者、などを交えて「キセイノセイキ」で起こった問題について、ブルーシートの上でラウンドテーブルのようなものが行われた。夜遅くまで話し込んで、その後近くのバーミアンでさらに残った人たちで2時ぐらいまで話が膨らんだ。そこには担当キュレーターも訪れていて、笑顔をもらしていた。遠巻きに見ていた僕からは、そこらへんの微妙な関係を不思議に感じたが、一度きらいになってしまうと、相手を全否定し、非難ばかりしてしまう自分の言動も極端だよなぁ、と思ったりした。東京都現代美術館は改修工事のために2年間の休館となった。



2016/06/06/月 
13:00〜 @トリコロール 
 Mさんと銀座メゾンエルメスの「奥村雄樹による高橋尚愛」展で待ち合わせをする。銀座ファイブの老舗では無い方の喫茶店「トリコロール」に入って、BankART School「戦争と美術」の本の打ち合わせをする。余談で東南アジアに渡った日本人画家の話をしたら、現地の戦争画と日本の戦争画を調べているインドネシア人と今度横浜で会うという。ひょっとするとインドネシアの日本人画家の話も出るかもね。と、何かわかったら教えてくれるらしい。予定の時間を超えてしまい、急いで表参道に向かう。

14:30〜 @クレヨンハウス 
 少し遅刻。SUZUKIのリサーチについては何もしないうちに思った以上に時間が過ぎてしまった。Cさん、Iさんと、今回の企画で参加することになった方と打ち合わせ。前に話してもらっていたUさんのテキストをもらう。
「カンボジアのSUZUKIを探して」東南アジア美術研究会の会報『しるぱ』Vol.1、2016年5月発行
「日本軍政と東南アジアの美術」九州大学大学院人文科学研究院『哲学年報』第72輯、2013年3月発行
他参照資料として、
『巴里週報』第153号、1929年10月28日発行
『朝日新聞』(東京)1939年6月18日夕刊
『読売新聞』1935年6月7日朝刊。
 「カンボジアのSUZUKIを探して」 にまとめられていたUさんのリサーチはすごかった。これだけ資料がなく困難なものを現地に赴いたりしながら丹念に調べている。その熱量に感動した。そしてこの研究結果の他に、僕が何かを発見することが出来るとすれば、おそらく僕が藝大に10年近く通っていたことや、昨年行った戦前・戦中の日本の画壇についての勉強と、戦争画についての知識を生かすことだとうと思った。

SUZUKIの本名は鈴木重成。
昭和3年の藝大卒業生で組織された三春会で作品を発表。
そしてフランス人の妻がいたらしい。



016/06/21/火 
17:00〜 @東京藝術大学大浦食堂 
 Oさんにインタビューをする。インドネシアの日本人の美術教員について。何かヒントや、共通点があるかもしれない。彼に今回のリサーチの資料を出すと、「僕もインドネシアの話はUさんに聞いたんだよ。」と話をしてくれた。インドネシアに行った時に、現地で教え子の孫の家がわかって行ったが、結局その時は会えなかったらしい。インドネシアの美術教員については、ひょっとすると信用を勝ち得るために藝大の名前をだしたのかもしれないらしいし、本当に藝大卒だったのかもしれないらしい。そんな人もいたということか。また、モリ・キンセン(森 錦泉/吉五郎)という画家について後についてもFBのメッセージでブログ記事のURLを送ってくれた。http://blog.livedoor.jp/aqa_art/tag/%E4%BD%9C%E5%93%81%E8%AA%BF%E6%9F%BB
 Oさんはカンボジアについても話をしてくれた。日本はカンボジアに支援をしているし、後進国だと思っているけれど、現地に行った時に「僕たちは戦後すぐに日本にお米を送っていましたよ」と言われたそうだ。戦後のアジアの経済状況は、比較的どんぐりの背比べで、むしろ日本の方が支援されるぐらい貧しかった。クメール・ルージュ以前のカンボジアのロックンロールや歌謡曲などの文化は豊かで、かっこよく、国家としても非常に繁栄していたという。一時間ほど話をして、Oさんと別れて都営バス(上26)に乗った。たしかに日本の高度経済成長は東西冷戦を肥やしにしたと言えなくもない。それは一方で過剰な社会主義と殺戮を助長し、おおきな犠牲の上に成り立った富でもある。そもそも、インドシナ、とりわけベトナムについてはフランス領で、太平洋戦争時に独立派を支援する名目で日本軍も植民地化を企んで散々かき乱して、朝鮮戦争などでは、他国のアイデンティティを分断することに協力し、俗に言うベトナム戦争もアメリカに加担していた。こういう書き方もざっくりしすぎていて、まったくもって自分の無知さと配慮がたりないことを自覚させられる。
 藝大の油画科は洋画科時代から、卒業時に自画像を必ず描いて藝大美術館に収蔵してもらう。鈴木重成さんの自画像があるかもしれないとアドバイスをもらったのでiPhoneで藝大美術館収蔵作品の公開されているデータベースで調べてみた。
あった。


鈴木重成さんの若かりし頃の顔。



2016/06/28/火 
@自宅 
 いろいろせわしなく、だらだらしていたら、SUZUKIさんをほっぽらかしてしまった。急に気持ちがせってきて、鈴木重成さんの自画像の実物ないし、大きなデータがあるかを藝大美術館に問い合わせる事にした。学術研究や各種掲載のために、作品の写真撮影や画像データの貸し出しをおこなっているとウェブページに書いてあった。電話をすると鈴木重成さんの自画像については、実物の撮影は難しいそうだが、比較的画質が良い大きなデータなら企画書の審査の上、貸し出しが可能だそうだ。個人的な研究資料として貸し出してもらう事にした。明日申請書を用意して提出する。

@東京国立博物館 
 Uさんのテキスト「カンボジアのSUZUKIを探して」 でも触れられているイングリット・ムアンさんの本『Cultures of Independence: An Introduction to Cambodian Arts and Culture in the 1950's and 1960's』を閲覧しに行く。すごい本だった。カンボジアの近代の建築から始まり、演劇、音楽、映画に至るまで調べられていた。Oさんの話ていたロックン・ロールの話もあった。モダン・ペンティングのコンテンツでSUZUKIについて触れられていて、教え子2名のインタビューも全文読む事ができた。他にカラーでS.SUZUKIの絵画が2枚紹介されていて、1枚には1955年(?)と制作年が書き込まれいた。描きかけのような少女の肖像画で、キャンバスに格子状に線が描かれ、パースをきっちりとる手法は、「戦争画STUDIES」でTさんがとりあげた清水登之の晩年の「育夫像」と類似している。東京藝大で教えられた描き方だったのだろうか。当時のカンボジアの美術学校は15〜18歳までの学生がほとんどだったらしく、1941年生まれの教え子のインタビューでは、入学して数ヶ月でSUZUKIは退任したようだ。1956年ぐらいだろうか。

@東京藝術大学杜の会
 東京藝術大学は東京美術学校時代から続く同窓会がある。それが杜の会である。美術科の教務に学生の入学時や卒業時の書類は残っているが、プライバシーの問題で近年は開示してはもらえないが、杜の会の名簿などについては、学生が卒業時に任意で改めて登録しているため、情報がある可能性がある。とOさんに指摘され、杜の会事務局に向かってみた。調べてはみてくれるみたいだが、なかなか難しいとのことだ。

@自宅 
 東文研(東京文化財研究所)のインターネット上で公開されているデータベースで「鈴木重成」を調べる。何もでてこない。鈴木重成さんが参加していたと言う「三春会」で調べてみると、「三春会」は1934年から1940年まで7回展覧会を開催している。さらにそのうちの数回は美術雑誌に展覧会評が載っていることがわかる。第5回と第6回については、東文研にカタログあるらしい。



2016/06/29水 
@東京藝術大学附属図書館 
 当時の作家となれば、文展や帝展などにも出展しているかもしれない。ご時世がご時世だから、下手をすれば聖戦美術展なんかで「作戦記録画」を描いていたって不思議ではない。過去の美術団体展も含めて記録を調べてみるも、どこにも名前はない。公募展や画壇周りもひととおり調べてみるも、どこにも彼の名前がない。昨日調べた三春会が彼の唯一出展していた(できた?)展覧会のようで、その美術雑誌の展覧会評を読んでみる。鈴木重成の名前がある。なんだか探しても探しても見当たらなかった彼の名前が見つかると、まるで自分が何かの公募展に受かったような、もしくは美術雑誌に批評文を書いてもらったような嬉しさに包まれた。「やった、ねえ、見てよ。僕のこと書いてあるんだぜ。」と図書館で誰かに伝えたくなった。たとえそれが批評文の中の最後の2行程度で、あまりよくないことが書かれていたとしても、有名画家たちが特権的に活躍しているようにみえる厳しい公募展や画壇といった世界を想像すると凄く名誉に思われた。そんな雑誌の一冊には彼の作品写真が印刷されているものもあった。トルコの風景画だった。彼は留学先のフランスに渡る時か、帰ってくる時に、トルコを経由したのだろうか。
 いや、鈴木さんはそんな人とは限らない。スター画家たちが偉そうに批評する言葉に小石を蹴飛ばしていたのかもしれない。

@東京藝術大学油画技法材料研修室 
 佐藤一郎先生が退任されても、未だに藝大の古い書籍などがあったりするので、本棚を見に行く。藝大100周年に際してつくられた『東京藝術大学100年史』なる本を見つける。第3巻にあたる昭和期を含む分厚い本の人命索引をみると、「鈴木重成」の名前がある。Uさんも調べていた、膨大な量の東京美術学校の『校友会月報』を中心にまとめられた書籍だった。入学年度が1923年(大正12年)。1928年(昭和3年)卒業。油絵の特別クラスで藤島武二に師事していた。



2016/06/30/木  
@自宅 
 東文研、東京国立博物館は17時、国会図書館や藝大付属図書館は20時まで。鈴木重成さんの学生時代は、藝大で掘り起こすのが1番だ。当時の美術界、画壇などであれば、東文研や美術雑誌、公募展記録、新聞だろう。それぞれ索引検索では一通り調べたと思う。家に帰っても何か調べることは出来るはずだと思って、昨年の「戦争画」の資料をひっくり返して藤島武二や、当時の画壇ついて再度読み返したりする。Uさんのテキストでは、戦後すぐに東南アジアに日本人が渡ることは困難だった現状を考えると、戦時中に日本が侵略先で文化政策や文化交流のために設けた「日本文化会館」に配属されたのであろうと推測されていたが、では、いつ、具体的にどのようにして鈴木重成さんがカンボジアに渡ったのだろうか。カンボジアでの資料がほぼ存在していないと考えて、ここらへんまでが国内で調べられる限度だろうと思う。
 インターネット検索をする。国立国会図書館のや、国立弘文館・アジア歴史資料センターのデータベースでは、同姓同名の人物がひっかかるも、かの鈴木重成さんは見つからない。グーグルで「鈴木」「重成」「suzuki」「shigenari」「スズキ」「シゲナリ」「カンボジア」「プノノンペン」「美術」「絵画」「洋画」「painthing」「mural」など、色々組み合わせて朝から仕事だというのに、ついつい夜更かしして部屋が明るくなるまで検索してしまった。関係ないと思われるものも、とりあえずページを開いてみる。その中でひっかかるものがひとつあった。
 神戸大学農学部の教員である高山Tさんが書いた『カンボディアの経済と社会』という1958年3月に発行された論文で、1957年に行ったカンボジアの調査旅行を元にして書かれたものだった。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81006892.pdfその中で、「宗教と習俗」というコンテンツの中で、
“カンボディアの2,000校に近い小学校のうち約3分ノ2の1,500校近くが寺小屋であり,ここで僧侶を中心にして仏教に基く道徳律や文字の教育等が行われている.それで農村に於ても不思議にカンボディア文字の読める男の多いのに驚かされるが,しかしその教育内容の低さは屡々都市の学校へ出た場合等に指摘されるところであり、宗教教育に主眼のおかれていることは容易に想像出来るのである。”
というくだりの脚注に、
“(3)プノンペン在住鈴木重成氏談「地球のまるいことすら殆んど知つているものはない」”
と書かれている。1957年にカンボジアに「鈴木」の名字を持つ人物は他にもいただろうと思うけれど、カンボジア国内で、しかもプノンペンにいる「鈴木重成」はおそらく1人だったのではないだろうか。もし、これがかの鈴木重成さんであるのであれば、現段階で最も新しい彼の存在が確認できる情報となる。また、どうして農村や都市の研究をする大学教員と鈴木重成さんは話をしたのか。美術学校を訪れたのだとすれば、「現地美術学校勤務」とされて良い気もする。たまたま会ったのだろうか。知り合いだったのだろうか。もしかしたらカンボジアに来る日本人のアテンドなども行っていた可能性もある。そうなると紹介者がいるはずだ。この高山Tさんに聞いてみたい。すでに大学は1991年に退任されていて、現在ご存命だとすれば80代かと思われる。当時のメモなど残ってはいないだろうか……。しかし、カンボジアでの鈴木重成さんの足取りについては、カンボジア国内に限らず、カンボジアを訪れた日本人の記録に残っている可能性もある。
 そしてもう1つ、Geoffrey Gunnさんが書いた「War Claims and Compensation: Franco-Vietnamese Contention over Japanese War Reparations and the Vietnam War 主張と賠償−−日本の戦争賠償金をめぐる仏・越論争とヴェトナム戦争」というテキストである。http://apjjf.org/2011/9/49/Geoffrey-Gunn/3658/article.html  この中で1954年10月4日の朝日新聞の記事が紹介されている。
“Writing in the Asahi newspaper of 4 October 1954, under the headline “Cambodia is Japonophile,” author Ishizaki observed that, not only did goodwill exist in Cambodia towards Japan, but that it was “one of the few countries in Southeast Asia where hatred towards Japan was not displayed.” Citing chargé d'affaires Yoshioka, Ishizaki declared that, from the king and ministers down, all displayed affection towards Japan. He attributed this benign state of affairs to the work of the Suzuki brothers (Shigenari and Shigemichi) who had taken up residence in Cambodia in 1944 as head of the Japanese cultural mission, one a Keio University graduate, another an ex-Paris trained artist. As an example of Cambodia's links with Japan, Ishizaki observed, the king (Sihanouk) had secured airplanes from Japan and sought engineering assistance to construct a port at Ream (in the Gulf of Siam) to lessen dependence upon Vietnam. He also noted that Japan had contracted 120,000 tonnes of maize the previous year (MAE Asie Océanie, Japon 95).”
 驚きである。SUZUKIがS.SUZUKIだとわかった経緯から、Shigenari Suzukiだと発見され、鈴木重成であることまでがつきとめられてきたのが、まさかのSuzuki brothers である。1944年にcultural missionでカンボジアに渡っている。おそらくはUさんが睨んだとおりである。早速兄弟の「shigemichi」について検索をかけるも、なかなか出てこない。漢字も何通りか考えてみるも、カンボジアと接点のあるそれらしき人がみつからない。1名、もしやと思う人物がいる。会津若松出身の「鈴木重道」である。東京美術大学の『校友会月報』で鈴木重成さんは福島出身であることがわかっているが、この「鈴木重道」は伊佐須美神社の宮司である。朝鮮総督府の祭務官でもあった。ラディカルな神道論者である本田親徳についての研究本を出していている。植民地における文化政策としての「日本文化会館」の設置とともに、日本軍は侵略先で鳥居や神社を建てている。宮司としてのcultural missionとも考えられなくはない。新たな事実が出てきたが、その分また疑問と足がかりが生まれる。実際の新聞記事を確認するほかない。さあ、朝だ。仕事に行こうか。



2016/07/07/木 
@国立国会図書館国際子ども図書館
 ちがった・・・・。「shigemichi」は「重通」だった。例の1954年の朝日新聞記事を朝日新聞のデータベースで検索し、詳細がわかった。
鈴木重成 当時53歳(1901年生まれ)
1944年、日本文化会館研究員としてカンボジアに渡る。フランスで絵画を勉強。プノンペン工芸学校教授(おそらく誤訳)。毎年カンボジアで個展を開催し、7・8点は売れていた。王宮に大きな壁画を描いている。アンコールワットなどの学識も深く、カンボジア朝野の辛抱を集めている。
鈴木重通 当時42歳(1910年生まれ?)
慶応大学経済学部中退。1944年、日本文化会館研究員支所長としてカンボジアに渡る。54年当時在カンボジア日本公使館勤務。また若者に柔道を教えている。
 重成さんは、シハヌークの家族の絵も描き、宮殿に壁画まで描いてた。おそらく1975年のプノンペン陥落後、それらはたたき壊されたであろうが、カンボジア王宮の画像検索をインターネットでしてみる。何も出ない。弟の重通さんは、1954年の段階で公使館勤務で柔道も教えていた。色々と検索してみるも何も出ない。しかし公使館勤務であれば、日本政府からの勧告も比較的届きやすかったはずで、ビザもとりやすかっただろう。1975年に重成さんは74歳である。ご存命だったとすれば外国人一斉退去命令時かそれ以前に、この兄弟はカンボジアを離れている可能性の方が高いのではないだろうか。重成さんの行く先は、東京か福島。当時はカンボジアからタイに出国する人も多かったという。イングリット・ムアンさんの本『Cultures of Independence: An Introduction to Cambodian Arts and Culture in the 1950's and 1960's』の重成さんの生徒だった二人のインタビューでしか語られていないが、人形づくりをするフランス人の妻がいたとされている。彼にはフランスへの出国という選択肢もあったかもしれない。
 しかし、このフランス人妻というのはなんだろうか。わかっていることが限られていて調べようもない。本当に重成さんは結婚していたのだろうか。フランス留学時代に二人は出会ったのだろうか。失礼な話かもしれないがフランス留学直前の自画像を見る限り、重成さんに藤田嗣治ほどの色気を僕は感じない。パリで垢抜けたのだろうか。そんな日本人男性と結婚するフランス人女性とはどんな人なんだろうか。それともフランス領のカンボジアで出会ったのだろうか。
 フランス留学をして帰国後、世界大戦が起きて、数年後、重成さんはカンボジアの日本文化会館に研究員として配属され、そのままカンボジアにのこり、現地で絵画を教えた。71歳までご存命だとして、クーデターによる政権交代と、クメールルージュによる革命(と言っていいのだろうか。)とジェノサイドに巻き込まれるわけである。かなりドラマティックな人生ではあるが、このフランスの妻の人生というのも相当なものだとお思う。女性という立場で日本人と結婚し、日本を経由してインドシナで生活をした、社会情勢や国という単位に翻弄される人生。
 @東京藝術大学美術学部芸術学科 
 まだまだ重成さんの学生時代、三春会時代と調べることもできるだろう。Sさんに話を伺いに行く。戦争画のリサーチの時にも協力してもらったので、今後のリサーチの進め方にアドバイスをもらおうと、アポイトメントもしないでドアをノックしてしまったが、暖かく迎え入れてくれた。芸術学部の資料で、思い当たる節を調べまわってくれたが、重成さんの名前は出てこなかった。藝大時代の話だとすれば、『東京芸術大学百年史』を編集した機関は、現在は教育資料編纂室として、J先生が藝大の過去の資料をアーカイブしているという。また、道信さんに重成さんの絵を見せると、なかなか固くてしっかりしていて、日本でも美術教員をしていた可能性を指摘される。文部省は毎年公務員の教員のデータを残していて本になっているから調べる価値はあるかもしれないと教えてくれた。また、日本の近代美術教育については、金子一夫さんの編集されている書籍もあるとのことだった。
 当時の洋画会は、時期によって月報や週報、戦時中にはなぜか、日報が出ていたらしい。そこには、美術とは関係なく、作家たちの日常の報告がされていて、渡航や結婚などのプライベートな内容が書かれていたという。東文研に全ての日報が集まっているわけではないけれど保存されている。更に、朝日新聞や美術団体で、作家や美術団体など対してに、当時は年に1回アンケートを取っていたという。出身地や生年月日、拠点、編成など、少しの情報だが、それも東文研にあると言っていた。貴重な資料でもあるので、道信さんからそれぞれの研究者に連絡してくれるという。ありがたい。



2016/07/08/金
@東京文化財研究所
 名前を聞くのを忘れてしまった。白いポロシャツを着た小柄で華奢な色黒の可愛らしく賢そうな中年男性の研究者が、調べ物の手伝いをしてくれた。どうやって調べたらいいのかもわからず、僕の持っている情報を話すと目星をつけてくれて、検索をしてくれた。以前に三春会の資料を請求した時に、相当マニアックなものを調べる人がいると思ってくれていたみたいでもあった。散々走り回らせてしまったが、重成さんの名前や三春会の情報は新たには出てこなかった。「もう少しこちらでも調べてみますので、何かわかったらご連絡しますね。」と話をてくれた。

@自宅
 ふと、向田邦子のエッセイ「鉛筆」思い出して読み返す。カンボジア人と結婚し、クメール・ルージュによる殺戮で家族を失った日本人妻がカンボジアから救出されるニュースに彼女は15年前のカンボジアで出会った王族の青年と、その日本人の妻に思いを巡らている。
奇跡的に生きながらえ、救出された日本人妻のニュースが伝えられた頃、私はいつもより丁寧に新聞を読み、ノロドム・キリラット氏と夫人の名を探していた。
 日本では、軍部の絶対的な権力のもとで戦地で取材をし、画家たちが作戦記録画を描いていたとき、重成さんはあいもかわわらず風景がばかりを描いていたのだろうか。カンボジアの日本文化会館の研究員として配属されたのは、きっと留学中に身についけたフランス語が堪能であったからだろう。藤田嗣治は第一次大戦をフランスで迎えている。移民であった彼は、戦争で画家が何をするべきかをフランス人の画家たちが実践しているのを目の当たりにして、日本に帰ってきて率先して巨大な戦争画を描いている。カンボジアに渡って王室に好かれていた重成さんは、宮殿に壁画を描いたという。そして、ひとりのフランス人の女性は、母国を離れて東洋人の画家結婚し、カンボジアで人形を作っていた。彼女は1975年をどのように過ごしたのだろうか。すでに地球上からいなくなっていたかもしれないし、カンボジアを追われて言葉も通じない日本に逃げたかもしれない。想像するのもおぞましいが、拷問されたり、処刑されたのかもしれない。  
 数日前、バングラディシュのダッカのレストランでテロ事件が起きて、28名が殺され、そのうちの7名が現地の交通インフラ整備のために力を尽くしていた優秀で正義感の溢れる日本人で、若いイスラム原理主義の若者たちがイデオロギーに酔って犯行に及んだと新聞やテレビが伝えている
被害にあった日本人は善良な市民であったが、果たして日本人は善良なのだろうか。



2016/07/13/水 
外交資料館
 重成さんの旅券発行記録と、カンボジアの日本文化会館の資料を探しに、TAKE NINAGAWAの近くにある外交資料館に行ってきた。フランスの武装解除がされるまで、日本は何時ぞやのタイミングで乗っ取ることを考えながら、フランスと共同でカンボジアを支配していた。それによって現地住民に対して激しい負担を強いたことになる。侵略国としてはインドシナという単位で考え、カンボジアやタイやベトナムに対する政策は一辺倒な部分もあり、それぞれの国のことについては、細かい事情に対処するぐらいに思っていたのではないかと感じたりする。しかしながら日本のインドシナ諸国のそれぞれの国との関係の違いは、江戸時代からの貿易や人の行き来、そして戦後から現在にかけての文化政策、特に日本語教育については比較的わかりやすくその違いがみて取れる。
 戦時中のカンボジアの日本文化会館の記録は少ない。カンボジアは日本の支配下でフランスに武装解除させて独立する。このタイミングで鈴木兄弟はカンボジアに配属されたことになる。しかしながら日本の敗戦によって独立は取り消される。1946年の日本文化会館の解散時の資料が残っていた。この時、鈴木兄弟はそこにとどまることを決めていたのだろう。どうしてこの二人はカンボジアに残ろうと思ったのだろうか。再度フランスの保護国となったカンボジアは、フランス人の妻がいることも考えると、重成さんにとっては居心地が良かったのかもしれない。戦後のカンボジアと日本の友好関係を念頭に入れての話なのかもしれない。
 重成さんのフランス留学時の旅券発行記録が見つかる。1929年2月。つづいて、1944年10月にカンボジアに渡る時の旅券発行記録も見つかる。勿論弟の重通さんも一緒である。これを見ると微妙に福島の本籍が違う。そして、実在するのかも伝聞でしか確認できなかった重成さんのフランス人妻の名前がわかる。鈴木・エレン・イヴオンヌ。つまり二人はカンボジアに行く前に結婚していて、日本で暮らしていたことになる。また、この旅券は東京から発行されている。彼ら三人は東京に暮らしていたのだろう。プノンペン陥落時に、在カンボジア日本人への外務省がおこなった勧告や名簿などの資料は2巻ほど存在するらしいが、審議中でまだだれも開示請求を出していないそうでだ。

@自宅 
 向田邦子が出会った王族の青年の妻は、辻キク子さんと言うらしい。カンボジア人と結婚して、1975年に逃げることが出来なかった日本人妻7名のうちの1人で消息は不明だということだ。7名のうち2名が日本に命からがら逃げ帰ってきて、日本で手記を出している。思わず古本を買って読んでみた。内藤泰子さんの『カンボジアわが愛―生と死の1500日』 (日本放送出版協会(NHK出版)、1979年)と、細川美智子さん、井川一久さんの『カンボジアの戦慄』(朝日新聞社、1980年)。さらに、フリーカメラマンの馬淵直城のカンボジア妻の『燃えた雨』(楠山忠之著、情報センター出版局、1985年)を読む。日本人の近代的な夫婦像と、内戦に巻き込まれる市民像、そしてイデオロギーが絡まり合って、離れてい話だった。
 平成天皇が高齢と過労を理由に「生前退位」の意向を示したとニュースが持ちきりである。宮内庁は全否定している。参議院選挙の勝利で、与党が改憲に向けて序文の変更も含めて動い始めた矢先の話である。シアヌークはクーデターを起こされ、王位を一度失墜しているが、これも平成天皇を嫌う現政権のクーデターなのではないかと疑ってしまった。「生前退位」を実施するには、典範改正などのために国会での議論が必要になると言われている。年齢と過労を理由に挙げているが、天皇による憲法改正の国会での議論に歯止めをかけるためのアプローチではないかとの見解も強い。真意はどこなんだろう。
 1953年11月9日、カンボジアはフランスより完全独立し、シハヌークは独立十字軍運動のために非公式日本を訪問している。昭和天皇は皇居の茶会にいている。1954年11月27日、カンボジアは在第二次世界大戦中の対日賠償請求権を放棄する。1955年12月4日、シハヌークは国賓として日本訪問し天皇・皇后両陛下、皇太子と握手をしている。



2016/07/14/木 
@自宅 
 お昼過ぎに、 東京藝術大学の教育資料編纂室のJ先生に電話をかける。S先生から本名で名乗らないと、信用されないからね。と言われていたのに、バーバラと名乗ってしまう。流暢に日本語を話す図太い男の声に「あなたが、バーバラ・ダーリンなの?」と笑って聞き返された。鈴木重成さんの話をして、もし他に資料があれば教えてもらえることになった。特に卒業写真など探してくださいと伝えた。
 鈴木さんの戸籍あたりを調べるも現住所は存在していない。ラーメンで有名な蔵町の喜多方町。明治の産業革命意向、商人たちが富を得た街である。兄が東京美術大学で、フランス留学。弟が慶応大学経済学部の鈴木兄弟。少し納得してしまう。市役所に問い合わせるも確定的な場所は不明。地域自治体の古地図や聞き込みが必要。



2016/07/15/金 
@TAKE NINAGAWA 
寝ないで資料をまとめたり、読んだり。
搬入。

ニースでフランスの独立記念日の賑わいにトラックがツッコみ80人が死亡するテロ。

彼らは、なぜ日本政府が法を破ってイラクに自衛隊を派遣したのかと尋ねています。小泉さん、彼らは日本政府に自衛隊の撤退を求めています。さもなくば、僕の首をはねると言っています。すみませんでした。
また日本に戻りたいです。



2016/07/16/土 
@TAKE NINAGAWA 
久しぶりの二徹である。昨日の搬入で間に合わなかったこと、ミスなどを修正する。
夕方にオープニングがあり、それまでは来場者はいなく、Iさんと、と岩間さんと和気藹々と話しながら、展示会場を整理していく。
 Iさんの難易度の高いカンボジアの近代史のテストの参考書籍を岩間さんが読みながら、グラスを並べたり、僕の手伝いをしてくれたりする。彼女はついこの前まで長年ベルリンに住んでいた。彼女のiPhoneには搬入中にも僕には届くことはないメールが届く。フランスのテロを受けて、大使館などから注意警戒などのメールだ。鈴木重成さんについては、彼が56歳以降の足取りがまだ掴めていない。その後カンボジアの内戦が激化し、彼はどうしていたのかがわからない。シリアの内戦で多くの難民がドイツを中心に多くの難民が流出し、イギリスでは移民の問題が悪化し、国民投票でEU離脱派が勝利し、その後混乱の一途をたどっている。7月10日の参議院選では与党が過半数を占め、自民党が戦後帰るとことのなかった憲法を序文から検討し改変することを意気込んでいる。キュレーションをしているCさんは、今どんなことを考えているのだろうか。Iさんのアウトプットに必要な石を河辺で拾い集めてCさんがギャラリーに現れた。
 オープニングには、かんらん舎のOさんが来てくれた。鈴木さんのリサーチを見て「この男はつまらん、やっても甲斐がないぞ。」「鈴木はカンボジアにいく前の戦時中、本当に出兵していないか。小津安二郎は1903年生まれで、1943年に報道部映画班でシンガポールに行っている。」とアドバイスをくれる。AIさんが振舞う液体と、スイカ。そしてかんらん舎のOさんがバナナとトマトを近所の八百屋で買ってきて皆でかじりつく。
 二次会が始まる。寝てないでお酒を飲むと酔いもまわるし、気分もいい。乳酸菌による健康法を気にかけている白いシャツの青年が2名いて少しひやかす。搬入作業に気を取られて世界が遠かったことを思い知る。僕が赤ワインを飲み干す岩間さんが今朝起きたトルコの軍によるクーデターに不安に思っている。僕はその時初めて知ってギョッとする。「知らんかったんか」とかんらん舎のOさんさんが、現状を説明してくれた。
 クーデターは失敗に終わったが、あまりに稚拙で時代遅れなものだった。トルコの全市民が軍に対して反感したわけではなく、エルドラン指示の大多数のトルコ人が、封鎖された橋に集まった。これから、まるで計画されていたかのように、エルドアンが独裁性が更に強くになっていくのではないだろうか。



2016/07/17/日 
@自宅 
ヨーグルトを買ってみる。



2016/07/21/木 
昨日、トルコのエルドアン大統領が3カ月の非常事態宣言を発令する。
@自宅 
喜多方市役所文化部の方が1930年の古地図を送ってくれる




2016/07/24/日 
調査報告書を読みました。
恐らく鈴木さんのことでしたら、私ではなく、佐藤先生が書かれていたのではないかと思っていました通り、39ページの皆さんに対する調査のお礼の所に二人の鈴木さんが出ています。

お一人は、鈴木御夫妻(プノンペン美術学校教授)もうお一人は、協力いただいた故鈴木重通氏(大使館)とありますので、お二人が別人だとすると、私の記憶に鮮明なのは後者の方です。

奥様がフランス人で、恐らく現地採用の大使館職員だったのではないかと思います。お家にお邪魔したこともあり、亡くなられてからは形見分けに本をいただきました。したがって、プノンペン美術学校教授の鈴木御夫妻については、私には何処でお会いしたどの方だったか殆ど記憶にありません。その方のお名前も全然憶えがありませんので、その方が、バーバラ先生がお探しの鈴木重成さんなのかどうかは全然分かりません。

しかし、当時、プノンペン美術学校の教授のようですので、そうではないかと推察はできます。佐藤先生とは別行動の日も何日かありましたので、佐藤先生だけお会いになって私がお会いしていないのかもしれませんし、お会いしたかどうかその時の状況は、定かでありません。佐藤先生がご存命中でしたら、美術学校の鈴木さんのこともよく憶えておられ
たのでしょうが、今となっては、もう仕方ありません。

私どもにとっては60年前のことですので、お申し越しの件について、何のお役にも立てず申し訳ないことと思っています。よろしくお伝えくださいますように。

TT 


2016/07/26/火 
@自宅 
喜多方市の鈴木兄弟の戸籍周辺の個人に電話をかける。

@東京芸術劇場 シンフォニースペース 
「海外で活躍するプロフェッショナル」 シリーズ Vol.6
原サチコのぶっちゃけドイツ演劇話4
~ハンブルク・ドイツ劇場の今シーズン・難民との取り組みを中心に〜
を聞きに行く。


2016/07/27/水 
お世話になっております。
お忙しい中ご返答いただき誠にありがとうございます。
私は現在手元に40ページ以降の高山先生の調査報告があり、39ページを参照できずにいました。

鈴木さんご兄弟にについてなのですが、両者とも戦時中1944年に日本の文化政策として、日本文化会館の研究員並びに支部長としてカンボジアに渡り、戦後は現地にとどまり兄の重成さんはプノンペン王立美術大学で教鞭を振るわれており、
弟の重通さんは公使館(大使館)勤務だったことがわかっています。
しかしながら、フランス人の奥様(鈴木・エレン・イヴオンヌさん)をお持ちだったのは重成さんであった思われます。
重成さんは大使館とのつながりも強かったとも考えられ、高山先生がお会いになられたのは鈴木重成さんである可能性が高いと思います。
鈴木さんご兄弟の現在足取りがつかめているのは、1957年の高山先生の調査報告書が最後となっています。
鈴木さんが内戦時にご存命だったのか、また内戦で亡命されたのかさえわかっていない状況です。
突然の問い合わせで大変恐縮ではありますが、形見分けをいただいた経緯、鈴木さんのお亡くなりになられたことについてもう少し詳しくお聞きできると嬉しいです。
いつ、どこで亡くなられたかだけでもわかると、私の今後のリサーチを進めるにあたって大変有意義になることは間違いありません。
ご面倒とは思いますが、鈴木さんについて、もう少しわかる情報があればご連絡ください。

バーバラ


2016/07/28/木 
 バーバラ様のお便りですと、1944年に鈴木御兄弟でカンボジャにわたり、フランス人の奥様と一緒に住んでおられたのは、お兄様の方の鈴木重成さんで、大使館にお勤めの弟様の鈴木重通さまではないとのことですが、そうすると、お亡くなりになられたのが、重成さんではないかということになります。そうしますと、佐藤先生がお世話になった方々のお礼の最初に鈴木御夫妻と書かれ、最後に故鈴木重通と書かれているのも、少しおかしいような気がします。
 弟様が独身で、お兄さん御夫婦とご一緒に住んでおられたのでしたら、考えられない事ではありませんが、その様な気配は感じられませんでした。また、弟様の奥様もフランス人でしたら、佐藤先生の御記載の通り亡くなられたのは弟様の方ではないかと思います。兎に角、形見をいただいたのは、悲しんでおられたフランス人の奥様からです。そのご兄弟と奥様の関係や私どもがお世話になった鈴木様がどちらの鈴木様かなど、不確かとなってしまいました。
 私共は、プノンペンを拠点とはしていましたが、時々数日間、地方に調査に出かけることがあって、その何回目かの調査から帰った時に留守中に鈴木さんが亡くなられたと聞き、直ぐお悔やみに出かけたので、鈴木さんが亡くなられた経緯やお葬式の状況など何もわかりません。フランス人の奥様に戴いた形見の本は、佐藤先生は、『ガリヤ戦記』だったことは憶えていますが、私が貰った本は残念ながら憶えていません。
 私の当時の日記でも見つかれば、もうすこし役立つ情報を送れるのかもしれませんが、現役時代はちゃんと整理して所在も分かっていたのですが、定年後、我が家に小さい書庫を増築して移動して整理していたつもりですが、例の神戸淡路大震災の時に、書斎としていた部屋の本箱も、書庫も棚が倒れたりして、ぐちゃぐちゃとなり、それを暫定的に片付けて放り込んだままとなっていますので、今のところ、何処にそれらが行ってしまったのか、簡単に探し出せない状況で、申し訳ないことですが、今のところ、何のお役に立ちそうにもありません。
 なお、当時の写真でもあれば、より情報が詳しく分かるのでしょうが、それらは、スライド中心で、すべて大学のものとして、資料として、大学の方のカンボジャの資料室の方にお預けして、私の所には、一切ありません。それをプリントアウトしたものも一切ありません。したがって、私の所には、調査報告書に掲載してある写真だけしかないのです。したがって、お世話になった方々の写真も一切ありません。申し訳ないことですが、今のところ、それだけの記憶や情報しかありません。
 (当時の商社などでプノンペン駐在しておられた大南公司の久沢さんや東銀の井上様ほか、ご存命なら、私どもより一層詳しくご存じだろうと思います。)
 よろしくお伝えいただければ幸いです。

TT






資料


鈴木重成
< >内、参照資料番号
戸籍:福島会津耶麻郡喜多方町XXXXXX <00003>※注1
父:寅廣(?)<00003>
1901 年3月4 日生まれ<00003>
1923 年東京美術学校西洋畫科入学<00001a>
1925 年藤島武二教室選択<00001b >
1927 年東京美術学校卒業
卒業製作『窓際』<00001c>
『自画像』<00002>
1929 年渡仏<00003>
1935 年〜39 年三春會展出品<00004〜00016>※注2
1943 年弟の重通と渡佛印<00017><00019>
1944 年日本印度支那文化會館カンボジア支部研究員(弟重通:日本印度支那文化會館カンボジア支部支所長)<000201><00022><00026>
1945 年日本印度支那文化會館事実上閉鎖<00018>
1946 年日本印度支那文化會館解散<00018>
終戦後、スクール・オブ・カンボジアン・アート (現王立美術大学)で絵画の教鞭をとる。王室の肖像画などを手がける。妻の鈴木エレン・イヴオンヌは人形をつくっていた。<00021>
年に一度の個展ではシアヌークが複数絵画を購入。弟の重通も在カンボジア公使館職員としてカンボジアに止まり、現地で若者に柔道も教えている。<00019><00020a><00020b>
1957 年弟の重通死去<00023>※注3

※注1
<00017>にある重成の本籍住所:福島会津耶麻郡喜多方町字緑町2556 は番地のつけ方から考えても、実在しない。また、旅券発行記録で隣になっている、京都の宮崎文氏の番地と同じなところから見ても、記入ミスの可能性が高い。弟の重通の本籍住所であり、重成の1929 年フランス留学時の所見発行記録<00003>による本籍住所:福島会津耶麻郡喜多方町字緑町4517<00001>も現在は実在しないが、1959 年当時の喜多方町の地図<00028>では存在すると思われる。
※注2
東京文化財研究所のデータベース、並びに当時美術団体に行われていたアンケートの記録、展評<00002〜00018>内容から三春會展には第一回目の時点ですでにフランスから帰国し出品していると思われる。フランス留学の道すがらトルコに立ち寄ったのではないかと推測される。
※注3
<00023>の執筆者である佐藤氏は2015 年に死去している。資料にある弟の重通氏の死去について、<00024>の執筆者の高山氏によると、1957 年の調査旅行の際プノンペンから地方を回っているうちに重通死の訃報をもらったという。形見明けとして佐藤氏は「ガイヤ戦記」を受け取っている。高山氏の記憶によると重通さんの妻もフランス人で、相当落ち込んでらっしゃったと言う。重通さんの妻がフランス人であったことは確認が取れておらず、兄の重成氏の死亡の可能性もある。また、高山氏の手元の資料は阪神淡路大震災によって失われており、記憶を辿るしかないとのこと。「当時の商社などでプノンペン駐在しておられた大南公司の久沢さんや東銀の井上様ほか、ご存命なら、私どもより一層詳しくご存じだろうと思います。」(高山氏メール)とのこと。




<00001a>
『東京芸術大学百年史東京美術学校篇 第三巻』第1 節大正12 年
P145『東京美術学校校友会月報』記事抜粋
東京美術学校近事[二二巻-一号。T・十二年・四月・二三日]
○新入学生
西洋畫科
鈴木重成
(1923)

<00001b>
西洋画科教室制に関する記録
『東京芸術大学百年史東京美術学校篇 第三巻』
第3 節大正14 年
P269
「授業関係書類」(大正十二年一月〜昭和二年二月教務掛作成)より
大正十四年四月 第三年生各教室編入表 西洋畫科
藤島 鈴木重成
(1925)

<00001c>
『東京芸術大学百年史
東京美術学校篇 第三巻』
第6 節昭和3 年
P357
『東京美術学校校友会月報』記事抜粋東京美術学校近事[二六巻-七号。S・三年・一月・三一日]
卒業生姓名及卒業製作目録(席次イロハ順)
西洋畫科
『窓辺』・本科・自画像 鈴木重成(福島)
(1927)

<00002>
鈴木重成『自画像』、1928、東京藝術大学大学美術館収蔵
http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=5410

<00003>
1929 年2 月旅券発行記録_東京
日本外務省外交資料館
旅券番號:一一六四九
氏名:鈴木重成
身分:戸主寅廣(?)長男
旅券月日:十月四日
本籍地:福島会津耶麻郡喜多方町字緑町4517
年齢:明治34 年三月四日生
旅行地名:保證人:英***佛國
旅行地名:**へ
旅行目的:絵画研究
**月日:二月二十五日

<00004a>
1935 年6 月7 日(金曜日)読売新聞東京版朝刊
YOMIURI ONLINE(読売新聞)「ヨミダス歴史館」
「曇りの日」(三春會展)鈴木重成

<00004b>
1935 年6 月7 日(金曜日)読売新聞東京版朝刊
<00004a>部分
「曇りの日」(三春會展)鈴木重成

<00005>
1935 年8 月1 日発行『アトリエ』
東京文化財研究所
展覧會小評「第二回三春會展」

<00006>
1935 年08 月01 日発行『美術』(東方美術学院)
東京文化財研究所
「三春會展評」猪熊弦一郎
○鈴木重成君
綺麗仕事に終わって居る事は惜しいと思ふ描ける筈だ一つ一つ美しいと思ったが弱いパステルは油に比べて君の技法に適して居る様にも思へた。


<00007>
1935 年08 月03 日発行『みづゑ』
東京文化財研究所
7 月の美術「三春會を見て」長谷川三郎
鈴木重成氏、鼠を基調とした淡い色調には特殊なものがあつて穩やかさがある。繪具や筆觸にも丁寧さがあつてよい。今の日本に珍しいやゝ英國風のアカデミストである。消極的になる事は不可だが、しばらく之を押して、淸純な畫境を拓き得れば面白い。

<00008>
1936 年05 月01 日
『美術』(東方美術学院)
東京文化財研究所
「三春會評」中村研一
鈴木重成君多く旅中のものらしくつき込み方が足りないのでよい構圖に出會つた時にのみよい繪が出來るらし、感動が繪の素では無からうか、トルコ風景、千葉風景などがよい、情熱を求むべきであらう。

<00009a>
1936 年05 月01 日発行『美之国』(大正創刊)
東京文化財研究所
「第三回三春會展を観る」鈴木千久馬
鈴木君のものには多少それが見えてゐる。赤い色によって多少その苦心もうかゞはれるが、まだそのマニエールの方がさきに目についてしまふ。

<00009b>
1936 年05 月01 日発行『美之国』(大正創刊)
東京文化財研究所
「第三回三春會展を観る」<00009a>部分
「トルコ風景」(三春會)鈴木重成

<00010>
1936 年05 月03 日発行『みづゑ』
東京文化財研究所
四月の展覧會評「第三回三春會展寸評」宮本三郎鈴木重成君には獨自の或るサンチマンが伺はれるが、女學生のやうな淡い神經がたゞよつてゐて、人を引きつけない。

<00011>
1937 年06 月01 日発行『美之国』(大正創刊)
東京文化財研究所
「第四回三春會」加山四郎
鈴木重成氏は近頃洋行したとは思へない。古風な畫面だ。なら風景一と千葉風景九この繪等から何うにか成らんものか。あれは光があつて良い。

<00012>
1937 年06 月03 日発行『みづゑ』
東京文化財研究所
「上杜会、三春會」佐波甫

<00013>
1937 年07 月01 日発行『美術』(東方美術学院)
東京文化財研究所
「第四回三三春會展見物記」藤岡一
鈴木重成君ー「濱波太(一)」海の色がうつくしい「東大寺附近」奈良は何時行つてみても氣持ちがよい。一年位住んでみたいと思ってゐつが未だその目的をはたさない。「不退寺境内」荒れはてた寺を思ひ出す。美術學校の修學旅行から歸つてこの寺の荒れてゐたのを随分なげいたものだった。

<00014a>
1938 年05 月一日発行:第五回三春會目録:表
東京文化財研究所
昭和十三年五月一日→九日 東京府美術館
出品目録
鈴木重成
・房州風景(一-七)
・東京近郊
・東京風景
・奈良風景

<00014b>
1938 年05 月1 日発行:第五回三春會目録:裏
東京文化財研究所
「オランダ風景」鈴木重成

<00015>
1939 年06 月十一日発行:第六回三春會目録
東京文化財研究所
昭和十四年六月十一日→十九日
東京府美術館
鈴木重成
1.伊豆風景(A)
2.同(B)
3.富士百景の内
4.ギタリスト
5.眞珠
6.千葉風景
7.浅野愛鷹(パステル)
8.富士(大宮附近)(〃)
9.同(三島附近)(〃)
10.据野(大宮附近)(〃)

<00016a>
1939 年06 月18 日朝日新聞東京版夕刊
朝日新聞記事データベース 聞蔵II

<00016b>
1939 年06 月18 日朝日新聞東京版夕刊<00016a>部分
朝日新聞記事データベース 聞蔵II
三春會第六回展
大沢昌助は「顔」「小舟造り」に堅實な描寫力を示し、寫實を目的とした福島順之助と鈴木重成は※ひが不足し、殊に後者の色彩は鈍い。山口猛彦の努力作は色調に難多くその他大部分が氣*に:けてゐることは一段と拍車をかける必要がある

<00017>
1943 年10 月旅券発行記録_東京
外交資料館
旅券番號:三八七六八四
旅券月日:十月四日
氏名:鈴木重通
身分:戸主重成弟
本籍地:福島会津耶麻郡喜多方町XXXXXX
年齢:明治45 年3 月3 日
渡航地名:佛印
渡航目的:赴任
旅券番號:三八七六八五
旅券月日:十月四日
氏名:鈴木重成
身分:戸主
本籍地:福島会津耶麻郡喜多方町XXXXXX
年齢:明治34 年3 月4 日
渡航地名:佛印
渡航目的:赴任
旅券番號:三八七六八七
旅券月日:十月四日
氏名:鈴木エレン・イヴオンヌ
身分:*右ノ妻
本籍地:福島会津耶麻郡喜多方町XXXXXX
年齢:明治37 年4 月8 日
渡航地名:佛印
渡航目的:夫ニ同伴

<00018>
各国会館関係雑件 10.日本印度支那文化会館
1946 日本印度支那文化會館解散について
外交資料館—アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B04011321400?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=日本文化会館%E3%80%80 解散&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

<00019>
2011 年12 月「War Claims and Compensation: Franco-Vietnamese Contention over Japanese War
Reparations and the Vietnam War
主張と賠償−−日本の戦争賠償金をめぐる仏・越論争とヴェトナム戦争」
Geoffrey Gunn
http://apjjf.org/2011/9/49/Geoffrey-Gunn/3658/article.html
Writing in the Asahi newspaper of 4 October 1954, under the headline “Cambodia is Japonophile,”author Ishizaki observed that, not only did goodwill exist in Cambodia towards Japan, but that it was“one of the few countries in Southeast Asia where hatred towards Japan was not displayed.” Citing chargé d'affaires Yoshioka, Ishizaki declared that, from the king and ministers down, all displayed affection towards Japan. He attributed this benign state of affairs to the work of the Suzuki brothers (Shigenari and Shigemichi) who had taken up residence in Cambodia in 1944 as head of the Japanese cultural mission, one a Keio University graduate, another an ex-Paris trained artist. As an example of Cambodia's links with Japan, Ishizaki observed, the king (Sihanouk) had secured airplanes from Japan and sought engineering assistance to construct a port at Ream (in the Gulf of Siam) to lessen dependence upon Vietnam. He also noted that Japan had contracted 120,000 tonnes of maize the previous year (MAE Asie Océanie, Japon 95).

<00020a>
1954 年10 月4 日朝日新聞東京朝刊
朝日新聞記事データベース 聞蔵II
親日感あふれるカンボジア【プノンペン=市川特派員発】
陰に二人の日本人の献身的努力カンボジアはうらやましい国である。四國を除いた日本ぐらいの面積を持ちながら、その人口はなんと四百万。一望千里、地平線の果まで続く水田、トウモロコシ畑があるかと思えば、広大な未開地が至る所に放置されている。しかも、日本人に対する感情は極めてよい。かつての日本軍によっていまだにぬぐいきれぬ反日感情を植えるけられた東南アジアで、これほど気持ち良く日本人を迎えいてくれる処はまずあるまい。「国王から閣僚に至るまで、みな日本をよく理解しよい日本の友人になろうと努めている」と吉岡公使も力説する。カンボジア人のこうした親日感の背景には、首都プノンペンに住む二人の日本人の献身的な努力のあることを忘れてはなるまい。鈴木重成(五二)重通(四二)さんの兄弟は福島県会津若松の出身で終戦前年の一九四四年四月、日本文化会館の研究員および支所長としてプノンペンに着任した。弟の重通さんは慶大の経済学部を中退して、日本文化会館の支所長として赴任、いまでは日本公使館に勤務するかたわら、柔道を教えて若いカンボジア人の間で人気を博している。兄の重成さんは美術学校で洋画科を卒業してパリに学んだ人。終戦後はプノンペン工芸学校教授となって活躍、フランス側、カンボジア側にも知己が多い。毎年催すその個展では国王は必ず七、八点お買い上げになるばかりではなく、王宮にも大きな壁面を納めている。またクメール文化の遺跡、アンコール・ワットに関する学識も深く、文化人としてカンボジア朝野の信望をあつめている。シャヌーク・カンボジア現国王の日本に対する親近感を現す一つのエピソードは、吉岡公使を通じて日本の練習機その他軽飛行機四台ほど注文されたことである。またカンボジアの経済的独立を*るためにサイゴンへの依存を排してレアムに外港を作る計画だが、この築港工事のために日本人の技術者を招きたいというのも政府要路の意向であるらしい。国交が開けたばかりで日本は昨年度一万二千トンのトウモロコシを買ったにすぎない通商関係であるが、カンボジアの将来はこれからである。米国のMSA 関係の専門家は、三年間で二倍ないし三倍の農産増収があげられるという。アンコール・ワットを見て帰り、西門の外の石畳で、すれ違った赤いベレーにカーキ服のカンボジア兵が、記者の顔をしげしげとなつかしげにながめながら「おお、ジャポン」と近づき、同行の鈴木画伯に「大佐さんか」とカンボジア語で尋ねた。「そうでない」と説明されると「一、二、三、四!アリガトウ」と知っているだけの日本語を動員し、いかにも名残惜しそげに、去っていった。 * 資料<00026>から本記事を発見

<00020b>
<00020a>部分

<00022>
The Cambodian Arts in the Age of Restoration by Ingrid Muan
http://www.studykhmer.com/videos/muan_citingangkor.pdf
00022_The Cambodian Arts in the Age of Restoration by Ingrid Muan.pdf

<00023>
2016 年5 月
アジア近代美術研究会「会報しるぱVol.1」
【研究発表要旨】「カンボジアのSUZUKI を探して」後小路雅弘

<00024>
1958 年3 月
紀要論文:カンボディア学術調査報告1:32-39
「1958 カンボディア踏査6000 粁」佐藤孝
神戸大学学術成果リポジトリ Kernel
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81006891
P39、L25 辺りから
終わりに多大な援助をいただいたダルマワーラベロン大僧正はじめ、ホートンリブ氏(農林省)、ジュパン氏(巡査)、オーコンホン氏(クラチェ華僑理事長)その他カンボディア官民の方々、吉岡大使はじめ大使館の方々、鈴木御夫婦(プノンペン美術学校教授)、青木、馬奈木(日南開発)、井上(東銀)、久沢(大南)、駒井(鹿島)、天野(江商)、森岡(柔道師範)天弘(浅野)、神原(長谷川)、西村(丸紅飯田)鎌谷(住友)、その他日本商社プノンペン駐在の方々、揚金清(朱潮豊)、コラン(仏軍将校)の諸氏に深謝します。又、協力いただいた故鈴木重通氏(大使館)の冥福を祈ります。

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1958 年3 月
紀要論文:カンボディア学術調査報告1:40-80
「カンボディアの経済と社会」高山敏弘
神戸大学学術成果リポジトリ Kernel
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006892
P58、L5、脚注部分
(3)プノンペン在住鈴木重成氏談「地球のまるいことすら殆んど知つているものはない」


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1959 年福島会津耶麻郡喜多方町地図
喜多方市役所