MEMO

 《MEMO》
2021,テキスト,

 


2021月4月末日
 現在、日本では劣悪な条件を示した「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を 離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する法律案」(以下入管法)が閣議されています。僕は移民や難民などの人道支援団体などと共に抗議運動に参加していて、随分と時間も過ぎましたが、その現場であまり芸術に関わる人にも会いませんし、この問題を言及してくれる人も少なく感じています。2019年の12月号で美術手帖は「『移民』の美術」として特集を組み、日本で開催される国際展でも世界的水準と同じく移民や難民とその歴史を題材とした作品が並び、トップトピックとして扱われてきました。芸術家や学芸員を始め芸術の場を率先してつくる人に限らず、むしろ鑑賞者と呼ばれる人たちが、美術館や芸術祭の経験として何を得ていたのかについて疑問に思っています。詰まる所、社会問題等を取り扱うコンテンポラリーアートの鑑賞経験は一体いかなるもので、消費とはなんであるのか。このような芸術の現場というのは、この国では非常に狭いフィールドですし、僕自身は個人の思いとして、芸術を見限ってしまえばすむ話であるかもしれません。

 国会議員は国民の選挙によって選出されるため、投票権を持たない外国人の処遇は直接的に票に繋がず、国民の人権意識によって左右するところが大きいとされています。なので、出入国在留管理庁(以下入管)の運用は、日本国民の外国人に対する意識をが反映されていると言えます。この国の決して少なくない難民申請数に対して、難民認定は極めて厳格で極端に少なく、入管運用については、司法の手も伸びないもので、極めて恣意的であり、収容施設においては度重なる暴力が諸外国や国際機関からも再三勧告されるほどで、複数の異常で無残な被収容者の死にさえ繋がっています。入管が内在化した人を人としてではなく、動物やモノのように扱う姿勢の背景には、投票権を有する国民の潜在的なゼノフォビアが関係してると言って過言ではないでしょう。

 川口に住む在日クルド人との交流や支援をする団体と僕は数年関わりを持ってきましたが、今回の入管法案に対して憤りを示したクルド人たちが、日本の入管やトルコ政府からの制圧を受ける危険性のある極めてリスクの高い「記者会見」を行いました。これに対して日本でのSNSなどでの反応は、友好的なものだけではなく、「犯罪者」「嘘つき」というレッテルに加えて、「マナーが悪い」ことから国外退去を求める声が散見されました。(以前よりも増えているように思われました。)日本に暮らす生活者として正当な権利を示しているようにも見えなくないですが、一定の集団・民族を蔑んだり、「国から出て行って欲しい」という思考が付随する以上極めて差別的です。また「マナー」という文化に従わない人に対して、「郷に入っては郷に従え」などの言葉が示す正義は、この国の植民地支配と外国人に対する同化政策の歴史を連想させます。

  日本に難民申請をしているクルド人たちの多くはトルコから訪れます。彼らは諸外国では一定以上が難民認定される人々ですが、日本では歴代ゼロです。これが意味しているのはこの国の難民認定制度の欠陥、あるいはトルコと日本との間での政治的な判断がされていると言えると思います。トルコのクルド人は暴力や差別といった迫害に加え、文化浄化政策によって制圧されています。トルコ人のみならず、クルド人同士の監視システムを仕組まれ、クルド語の使用を禁止され、住んでいる土地を奪われます。これらを可能とするのが、これまでの世界中の歴史で再三繰り返されてきた「そのような民族はもともと存在しない」という制圧側の語りです。クルド人はトルコでは「ない」ものとされ、トルコ人として同化されます。そのため難民にさえなり得えず、「難民」であると名乗れば、トルコにとっては国家反逆・国家分離の罪に犯しているとみなされます。この方法は、僕にとって最も身近な国である日本の歴史の話にとても似ています。そしてこの国の人々が、クルド人が「マナーが悪いから」と追い出し、彼らの命を平然とトルコに差し出すのであれば、制圧に加担するだけではなく、日本人の意識はあの時から再び、もしくはずっと変わらずにあったと言えるでしょう。

 近代における家父長制を礎とした民族主義を活用した帝国主義の啓蒙が、脈々と外国人のゴミ出しに対するまなざしに受け継がれているように思います。ここでもう一度考えてみたいのが、この国で移民・難民を題材にし芸術作品や展覧会をつくったり、鑑賞したりすることです。かつてセックスワーカーとされて過酷な境遇にあったバレリーナたちを、エドガー・ドガは劣悪な環境においてモデルにしていたと言われています。彼女たちを動物の名前で形容し、”おそらく僕は、女性を動物としてみなすことが多過ぎた”と語ったと言います。ポール・ゴーギャンは母国フランスが植民地支配していた国を訪れ「楽園」と称しました。現地で未成年の女性と結婚し、性的な関係を持ち、彼女たちを描きました。僕はそれを知って、絵画とそこに描かれた者を、芸術ではなく”歴史”として見ることができますが、それでもまだ”歴史“に付随し、網膜に男性性を宿す邪悪なまなざしは消えません。結局どの立場でさえ芸術をめでることは、誰かの表象を奪い、まなざすもので、常に搾取と所有、支配の構造から抜けることもできません。これら芸術を介した経験が実生活や自分を取り巻く環境における被写体の境遇の改善に活かされないのであれば、歴史は再生産されていくのかもしれません。

 僕は、コロナ禍になって行き場のないレスボス島から来た難民たちを見下ろすアパートメントを借りて、2020年の9月に1ヶ月間、難民支援のボランティアをしながらアテネに滞在しました。その広場は2015年の難民危機の時に特に多くのアフガニスタンの難民たちがヨーロッパの北東に向かうための情報を収集するために集まった広場で、今もアテネにいる彼らの憩いの場になっています。僕は、近くの大きな公園に行き、誰かを待っている少年たちと出会いました。彼らは仕切りに英語で「タバコ持ってる?」と通りかかる男性に話しかけ、時折白人男性と茂みの中に消えて行きました。ベンチで隣に座ってきた若者が「何を探している?こういうすべすべの肌も好きだよ。僕はアフガニスタンの難民だよ。心配しないで、僕のは大きいよ。」と僕の太ももを優しく撫でてきました。僕は彼をアパートに招き、彼の顔を鉛筆でスケッチして、お金を渡しました。彼はバルコニーに出ると、「ビクトリア広場が一望できる」と喜んで、スマート・フォンで写真を撮っていきました。9月9日は僕の誕生日でしたが、未明に広場で野宿していた人々は警察によって護送車で郊外の収容施設に連れて行かれ、レスボス島では、モリアキャンプが火事によって消滅しました。今も依然として、そこにいた人々の境遇は改善されず、悪化したとさえ言われています。